Najinの日記

理系の大学2年生が日々思ったことをただ単に書いていきます。

最も尊敬する人

 僕が最も尊敬する人は中学時代のバスケ部の顧問の先生です。その先生は、本当に面倒をよく見てくれて、毎日の朝練、休みの日もほぼ休まず練習を見に来てくれていました。厳しく、かつ優しく、バスケを通して色々なことを教えていただきました。本当に好きな先生でした。

 

 当時は先生は多分50歳超えていたのにもかかわらず、生徒と一緒にランニングしたり、フットワークの練習をしたり、1-4階までの階段を一緒に25往復したり、ゲーム形式の練習に出たりと、こんなアクティブに自ら動く先生はとても輝いて見えました。

 

 バスケ部の公式戦、都大会に出場した時、初戦で負けました。怒られるんだろうなぁと思いながら、ミーティングが始まると先生は「ごめん、俺の戦術が間違っていた。負けたのは俺のせいだ」と言い、思わず、目頭が熱くなりました。後で知った話ですが、先生は大会費を自分のお金から出していたそうです。

 

 部活だけでなく、学校での掃除の時間、他の先生はただそばで傍観してるだけなのに、その先生だけは生徒と一緒に雑巾掛けしたり、机を運んだりしていました。先生の口癖はいつも「俺は年を取りたくない」でした。生徒達はその先生が前にいるときだけは、自然と静かになりました。

 

 こんなカッコいい大人になりたい。年を重ねても、驕らず謙虚に、芯が固くていつも他人から慕われ、自分の努力も怠らない。世の中、権力のある立場に立つと、思いやりがなくなり、自己満足に走って、他人を苦しめるような人が大勢いる。しかし、先生は僕にとって全てが見本で、父親のように思っていました。そんな先生とこの間成人式でツーショット写真を撮れたことは一生の思い出です。ありがとうございます。僕も先生のようなカッコいい大人になります!絶対に!

僕の両親について3

 前回までの記事では色々両親について書きましたが、なんだかんだ波はありながらも仲良くやってるんですよね。普通の日本人と比べて、ちょっと表現とかコミュケーションが大げさであるということでで、それが僕にとっては日本人同士のコミュニケーションの仕方に慣れているから辟易してしまう部分があったんじゃないかなと思います。中国の実家に帰省すると毎回のように色々な人たちが、言い争いしょっちゅうしているわけですよ。一晩もの間、何時間もずっとひたすら大声で言い争ってるなんてこともありましたね。気持ちを素直に伝えるということも大事とは思うけど、時には角が立たないように配慮することも必要なのかなと。バランスの問題のような気がします。日本は逆に押さえつけすぎて、息苦しいような気もしないでもない。日本と中国の中間くらいが丁度良いんじゃないかって最近思うわけです。
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僕の両親について2

 

 

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 前回の記事に関連して。今の”僕”という人間が形成される要因となる最も大きなイベントが小学校4,5年生の頃にありました。

 

 当時覚えてるかな?リーマンショックで日本経済全体がものすごく停滞していたわけです。僕の父親はソフトウェア技術者をやっていたのですが、その煽りからか、職を失いました。末端技術者というのは理系とはいえ、ほんとに将棋の歩兵のように呆気なく首切られるんだなと、小学校4年生の頃の僕もおぼろげながら強く実感しました。そして案の定父親と母親は大喧嘩しました。普段の喧嘩よりも一回りも二回りも大きな喧嘩でした。父親は仕事を失っただけで無く、投資や連帯保証人、よくわからん事業に手を出したり、などで当時の家の貯金をほぼ全部使い、借金もしていたみたいです。母親は、「子供の学費はどうするの?将来どうやって生活するの?生きていけるの?」と言っていて、初めて母親が泣くのを見ました。その後親同士は相変わらず会話無く、僕は母親に家を出ようとか、離婚しようとかいうことを言われました。何を言っているのかよく分かりませんでした。なんとか食いつないで、1つ屋根の下で生活していましたが、1年もの間親同士で会話することは一切ありませんでした。僕も家の中でどういう振る舞いをしたら良いのか?どうしたら良いのか分からず、何度も1人で泣いたことを覚えています。当時一番辛かった仕事がありました。それは、親同士のコミュニケーションの仲介役を務めていたことです。父親に「荷物が届くから、お母さんに伝えといてくれ」と。僕は、勇気を振り絞って伝えました。伝わらずに荷物が届くとまた喧嘩のタネになってしまうんじゃないかと思ったのです。父親は一応派遣の適当な仕事をしていて、多分あえて母親とはすれ違わないような時間帯に家に帰ってきて、(母親は寝るのが早い)、次の日の朝、母親は多分あえて”早朝”のバイトを始めていて家には居ませんでした。母親がいない間に父親は起きて、仕事に行きました。休日も父親は家にはいませんでした。こんな辛い仕事は後にも先にももう無いでしょう。こんな辛い日々は後にも先にももう無いでしょう。たまに母親がいないときに家にいる父親は物にすごく八つ当たりして、母親がいるときには見せることのないキレ方、怒りっぽい性格の人に変わりました。なぜ息子の目の前で急に物にキレたりできるようになったのか...???地獄のような1年間でした。学校にずっと居たかった。家に帰りたくありませんでした。

 

 そんなかんだで僕は父親のようにはなるまいと決意しました。自分自身がこんな悲惨な辛い目には会いたくないと、自分の将来の家族に悲しい思いをさせるわけにはいかないと。そのためには、安定した”職”が必要だなと、そのためには良い大学に行くべきだと、そのためには良い高校に行くべきだと、子供ながらに考えました。元々は中学受験する予定だったみたいです。しかし家庭の状況により全て水の泡になりました。近くの公立中学校に入ってから、死に物狂いで勉強しました。塾に通いたいと母親にお願いし、通わせてもらいました。バスケ部にも入り、大変だったけど、勉強だけは一瞬も妥協をしませんでした。お陰で、第一希望の高校に入ることができました。お陰でそこそこの大学に入ることもできました。多分、あの経験がなければ、僕はこんなに勉強することはなかったし、良い大学に入ることも無かったでしょう。今も僕の中の土台にはこの小学校時代の記憶がはっきりと刻まれています。絶対に将来は幸せな生活を手に入れるんだと!幸せな家族を築き上げるんだと!この思いは今でも生きています。この意味で、この経験は僕にとって必ずしも悪いことばかりでは無かったんじゃないかと最近思うわけです。

僕の両親について1

  唐突ですが、僕の両親は僕が小さい頃からしょっちゅう喧嘩ばかりしてました。大抵いつもお金の問題で母親がガミガミ言ってくるのを父親が激昂してそこからファイトが始まるといった具合です。軽いやつじゃ無いです。僕の両親の場合全力で怒鳴りあったり、物投げたりします。そしてしばらくの間(短くて1週間、長くて一年くらい)一切会話が無くなります。これが定期的に繰り返されました。僕が小さかった頃は、一人っ子でもあり、家も狭く両親が目の前で喧嘩したりすると悲しくていつもゲームと一緒にトイレに逃げ込んでました。(喧嘩が止むまで何時間も)トイレなら防音もあるし、なんとなく落ち着けたのです。とはいえ親にバレないようにいつも泣いてたような気がします。変なことで親を刺激するとまた波風が立つような気がしたので、親に心配かけないように心がけてました。そして現実逃避の世界はいつもポケモンでした。ポケモンの世界に浸っているときはいつも希望と楽しさに心が満たされていました。もしゲームがなかったら、ポケモンがなかったらと思うとゾッとしてしまいます。ほんとにほんとにポケモンは僕にとって辛い時期を乗り過ごすための命の恩人でもあったわけです。(プロフィールのカビゴンは一番好きなポケモンでした。ただそれだけです。)両親の喧嘩後、戦場のような緊張感の張り詰めた家は会話が一切無く、家にいるときは、いつも気持ちを紛らわすために、ゲームばかりしてました。この時ばかりは親にゲームしすぎを注意されることはありませんでした。親を刺激すると良くないと察していた僕は、なるべく自分の存在を消して家の中で過ごしました。声やゲームの音声は一切立てず、移動するときも、床の音を立てないように移動し、自分の悩みは全て自分で抱え、解決するようにしていました。そして自然に親同士がまた仲良くなるのを待っていました。外にいるとき、学校や友達と遊ぶ時間だけが唯一の安らぎでした。自分を素直に表現することができました。

 

 このようなことの繰り返しなので、今思うとトラウマのような記憶が僕の中に刷り込まれているような気がします。まず、人が喧嘩したりピリピリするのが苦手だし、急に驚くような大きな物音も苦手です。家の中では基本静かに今まで過ごしていたので、外でもテンション高い人との付き合いが苦手です。親同士がちょっとでも言い争いするようなら成長した今でもものすごく緊張してしまいます。あと、これも情けないし、おかしな話ですが、小学校5年生以降(詳細は後の記事で)、親とまともに会話することができないんです。特に父親。父親はいつも僕にとっては反面教師でした。育ててもらったことには感謝してるけど、家族のトラブルの大きな原因は大体父親にあったように今は思うし、父親としてのあり方、仕事の仕方など尊敬できない部分が多いです。(はっきりと正直にここでは書いてしまいますが)。あと父親は僕が自分の意思で選択した色々なことにいちいち反対するので正直今は嫌いです。言ってる内容もよく分からんし、全く聞いてませんが...そんなかんだで、親(主に父親)とは友達と話すような会話はしていません。というかできません。ほんと悪い息子だと自覚はありますが...どうしてもできない。できないものを無理にしようとするつもりも、もはや無いです。なので、たまに他人の家庭に上がらせてもらうときに、例えば、家族揃っての食事とか、みんな仲よさそうに会話してるのを見ると、やるせない気持ちになってしまいます。また逆にいうと、将来もし自分に新しい家族ができたら、絶対にこうはならんぞと。絶対に会話の絶えない幸せな家庭を築くんだと最近強く思っています。全て反動ですね。僕のこれからの人生はおそらく子供時代の反動で形成されていくんじゃないかなと。子供時代に薄かった家族の記憶、辛かった家族の記憶が今後の僕の人生を切り拓くある意味原動力になってくれるんじゃないかと最近思うわけです。

日本の接客業

 日本の接客業は凄いなと思います。僕の実家は中国の田舎なのでたまに帰省するんですけど、小学生、中学生の頃に帰省した時一番驚いたことは何で店員こんなに態度悪いんだろう???ということでした。いらっしゃいませのような挨拶は一切ないし、会計は無言で面倒くさそうにやり、お釣りは投げて渡され、商品を一回落としたら「何してんだ、もとに戻せ」と怒鳴られたこともありました。高校のときに帰省した時は、レジ打ちの人がみんなスマホ片手に見ながら、やってたり、バスの運転手が常にだれかと電話しながら片手で運転してたりしてました。(日本でこんなことすると大問題なんですけどねぇ)日本の接客の基準しか知らなかったから、すごく腹立たしく感じたけど、現地の人たちは実際なんとも思ってないんですよね。客が至れり尽くせりが当たり前だと思っていたらそれは大間違いだということです。

 

 色々な人の話を聞いたり調べたりすると、海外は割とどこも店員の態度は"日本人的には"良くないみたいです。逆に言えば、日本だけが異常だということです。アメリカはサービスに応じてチップが払われますが、日本は固定給の中にすでにサービスも含まれているという考え方なので、サービスを当たり前と思うか否かで価値観がずいぶん違うんですね。このことを知っているからこそ、日本で起こる理不尽なクレームとか、客が至れり尽くせり当たり前みたいな態度を取ったりしているのを見るとちょっと悲しくなってしまいます。日本で言うクレーマーが海外に行ったら一体どうなるんでしょうねぇ...???これはさておき、

 

 逆に言うと海外の接客水準を知ってしまうと、僕は(自分で言うのもなんですが)、一生懸命働いているからこそ、店員さんになるべく迷惑をかけたくないと思うようになったし、(同じ人間なので)ありがとうとか積極的に言うようになったような気がします。

 

 自分も中華料理屋でバイトしてますが、ホールやってるときに店員に配慮してくれる客(食器類をまとめておいておいてくれる、会計の前にお金を用意しておいてくれる、ありがとうと言ってもらえる等)は本当に嬉しく思うし、店員に横柄な態度の客は表向きには出さないけど内心めっちゃイラつきます。まあこれも時給の内かと思い、無難に対応しますが。とはいえ、日本の接客業は多分世界一のクオリティだと思います。だって別に時給が上がるわけでもないバイトの人たちが一生懸命サービスを提供しようとしてくれるんですから。少なくとも中国ではありえないことです。日々一生懸命働いてくれるサービス業の人たちに対する感謝を一生忘れないで生きていきたいと思います。

ブログ始めました!

 こんにちは。突然ですがブログを始めちゃいます。最近心境が目まぐるしく変わりに変わり、様々なことが頭の中をめぐりにめぐっていくのです。ふと思ったこと、そして自分の過去を振り返ってみて考えたことを書き記していきたい思った次第です。

 

 ここで"軽い"自己紹介。一応理系大学2年生(2019 1/27現在)で文系と理系のハイブリット的な学科にいます。人間工学、経済学、情報とか諸々。最近は大学での学習がどれも興味深くて、専攻ほんとに悩みます(*_*)。将来はとりあえず、下請けで薄月給、冷待遇な末端技術者(僕の父親みたいな)にだけはなりたくないと思う今日この頃。中国出身(地元は割と田舎だけど最近は経済発展が著しい( ゚Д゚))で、物心ついた頃からずっと日本暮らし。たまに中国の実家に帰省するけど、毎回日本とのculture shockで驚くことばかり。毎回苦労します。

 

 趣味はこれと言って無いですが、昔はバスケ部だったからバスケは今でも好きですね。する機会は無いですが...。スポーツ観戦とかお笑い番組見たりとかはよくしてます。普段テンション低いので一人でもテンション上げられるので。映画たくさん見ようとしたり、筋トレしようとしたり、新しいことにチャレンジしようとしたり、の最近。昔は(今でもそうですが)ゲームが大好きでして。現実逃避するときは大体ゲームに逃げる。ポケモンは僕にとってある意味命の恩人です。(詳しくは多分他の記事に書きます。ポケモンは命の恩人)あとカラオケ好きですね。一人でしょっちゅう行ってます。昔からサザンオールスターズが好きで(あまり同世代で共感してくれる人がいない、むしろ馬鹿にされたりしてきたのであまり言いたくないですが)、桑田佳祐さんの曲はほんとに心に響くんですよ。

 

 小学校、中学校、高校、大学といずれにおいても(自分で言うのもなんですが)なかなか大変な思いをすることが多い?そこで20歳になってから色々振り返ってみると、思うところがたくさん出てきたということです。昔から(特に最近)頭の中で色々考えごとをすることが多いのですが、(一人っ子なんで家にいるときは自分の世界に入りがち)せっかく考えたことなのに浮かんでは消え、浮かんでは消え、の連続でなんかすごくもったいないような気がしたのです。そこである意味日記のように僕の思考の形跡をこのブログに書き残していきたいと思ったわけです。ほんと適当に浮かんだこと、書き残したいと思ったことを適当に書いていく予定です。

 

 そういえば、僕のことを知っている人はなんとなく分かると思うけど、僕はあまり自分のことを多くは語らないタイプの人間です。語ってもどうしようもないような暗いエピソードならたくさんありますが...だけど、このブログでは自分の過去とかいろいろ思うことをウソ偽りなく堂々と書いていくつもりです。(もちろん分はわきまえて書きますよ)僕という人間を少しでも知っていただけたらと思います。

 

 またまたそういえばですが、僕はもともと文章書いたりするのが好きな人間だったような気がします。小学生の頃は自分で小説とか書いてたりしてたような(黒歴史ですが...)中二病みたいなかっこつけた文章の書き方をすることがあるかもしれません。ただ自己満でやってるのでご容赦してください。あと昔から感性が人と違うような気がしているのです。ちょっと違和感を感じるようなことを書くかもしれません。そこもご容赦ください。(自分に向けて)あと読者が一人もいなかったとしても悲しみません。完全な自己満ですが、将来(そういえばあの時の僕はこんなことを考えていたのかぁ)と昔を懐かしんで感激できればそれでオーケーかなと。よっしゃぁ今日からブログ始めまっせぇ~(表向きにはこんなテンション高くないよ...)。