Najinの日記

理系の大学2年生が日々思ったことをただ単に書いていきます。

僕の両親について2

 

 

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 前回の記事に関連して。今の”僕”という人間が形成される要因となる最も大きなイベントが小学校4,5年生の頃にありました。

 

 当時覚えてるかな?リーマンショックで日本経済全体がものすごく停滞していたわけです。僕の父親はソフトウェア技術者をやっていたのですが、その煽りからか、職を失いました。末端技術者というのは理系とはいえ、ほんとに将棋の歩兵のように呆気なく首切られるんだなと、小学校4年生の頃の僕もおぼろげながら強く実感しました。そして案の定父親と母親は大喧嘩しました。普段の喧嘩よりも一回りも二回りも大きな喧嘩でした。父親は仕事を失っただけで無く、投資や連帯保証人、よくわからん事業に手を出したり、などで当時の家の貯金をほぼ全部使い、借金もしていたみたいです。母親は、「子供の学費はどうするの?将来どうやって生活するの?生きていけるの?」と言っていて、初めて母親が泣くのを見ました。その後親同士は相変わらず会話無く、僕は母親に家を出ようとか、離婚しようとかいうことを言われました。何を言っているのかよく分かりませんでした。なんとか食いつないで、1つ屋根の下で生活していましたが、1年もの間親同士で会話することは一切ありませんでした。僕も家の中でどういう振る舞いをしたら良いのか?どうしたら良いのか分からず、何度も1人で泣いたことを覚えています。当時一番辛かった仕事がありました。それは、親同士のコミュニケーションの仲介役を務めていたことです。父親に「荷物が届くから、お母さんに伝えといてくれ」と。僕は、勇気を振り絞って伝えました。伝わらずに荷物が届くとまた喧嘩のタネになってしまうんじゃないかと思ったのです。父親は一応派遣の適当な仕事をしていて、多分あえて母親とはすれ違わないような時間帯に家に帰ってきて、(母親は寝るのが早い)、次の日の朝、母親は多分あえて”早朝”のバイトを始めていて家には居ませんでした。母親がいない間に父親は起きて、仕事に行きました。休日も父親は家にはいませんでした。こんな辛い仕事は後にも先にももう無いでしょう。こんな辛い日々は後にも先にももう無いでしょう。たまに母親がいないときに家にいる父親は物にすごく八つ当たりして、母親がいるときには見せることのないキレ方、怒りっぽい性格の人に変わりました。なぜ息子の目の前で急に物にキレたりできるようになったのか...???地獄のような1年間でした。学校にずっと居たかった。家に帰りたくありませんでした。

 

 そんなかんだで僕は父親のようにはなるまいと決意しました。自分自身がこんな悲惨な辛い目には会いたくないと、自分の将来の家族に悲しい思いをさせるわけにはいかないと。そのためには、安定した”職”が必要だなと、そのためには良い大学に行くべきだと、そのためには良い高校に行くべきだと、子供ながらに考えました。元々は中学受験する予定だったみたいです。しかし家庭の状況により全て水の泡になりました。近くの公立中学校に入ってから、死に物狂いで勉強しました。塾に通いたいと母親にお願いし、通わせてもらいました。バスケ部にも入り、大変だったけど、勉強だけは一瞬も妥協をしませんでした。お陰で、第一希望の高校に入ることができました。お陰でそこそこの大学に入ることもできました。多分、あの経験がなければ、僕はこんなに勉強することはなかったし、良い大学に入ることも無かったでしょう。今も僕の中の土台にはこの小学校時代の記憶がはっきりと刻まれています。絶対に将来は幸せな生活を手に入れるんだと!幸せな家族を築き上げるんだと!この思いは今でも生きています。この意味で、この経験は僕にとって必ずしも悪いことばかりでは無かったんじゃないかと最近思うわけです。